何かをおこなっていく手段を探っていくうちに、あなたは、素晴らしい景色を見ることもあれば、なぜこんな景色かと目を疑いたくなるような景色にも出会うだろう。
だが、あなたが見ている景色に「意味」はない。
景色は変わるし、あなたがその景色をコントロールすることは、できない。
あなたのよろこびとは、いかにあなたの好みの手段によって動くかというところにあり、進んだ先の景色がいかに素晴しいのかということではないのである。
変わらぬよろこびを、得るために。
あなたが人生においておこなうこととは、「大地」の上を、さまざまな感情をもって「進む」ということ。
「進む」とは、あなたにとって、好みのものを得られると感じられることをおこなうということである。
あなたが「こうしてみよう」と思ったものに取りかかるということ。
「これはどうかな?」と、思ったことを、一つおこなうということ。
あなたは、その場所に留まっているのでは見つからない、あなたの好みの感情を、「進む」ことにより見つけていく。
心の指針を眺めながら、あなたの思考の動きがどうであるときに、あなたの好みの感情を見つけられるのかということを知っていく。
そうしてあなたが進んでいるときに移り変わる景色とは、あなたがどのように歩みを進めたかによって手に入るご褒美ではなく、歩みを進めるうちに変わっていく、ただの景色に過ぎない。
つまり、いろいろなことはあるし、良いことも悪いこともそこには見えるということ。
「見えている景色が気に入らない」と思ったとしても、あなたが、その景色を動かすことはできない。
動かしたいと思うのであれば、あなたが移動することによって、その景色から離れればいいだけである。
例えば、あなたが車に乗っているときに、その移り変わる景色を気に入らないとして、嘆くことはあるまい。
移動する際に、その景色がどうであるかということを、楽しんだり嫌がったりすることはあっても、「通り過ぎるだけだ」ということが理解できるはず。
そして、その移動自体を楽しんでいないのだとすれば、あなたがよろこびを見出そうとするところを間違っていると気づくことができる。
あなたのよろこびとは、あなたが歩みを進めようとしておこなうこと自体に対する、自分の感情とするほかはない。
あなたが何をどのようにおこなうのかによって、あなたの感情は変わる。
景色は良くてもつまらないことはあり、景色が悪くてもうれしいことはある。
あなたが見ているのは次々に移る景色であるが、あなたの持続するよろこびとは、その景色ではなく、移動するための手段に対するものなのである。
あなたが何をもってその移動を果たすのかという手段を、あなたの好みの感情に沿ったものにするということによって、変わらぬよろこびを得られるということを知るべき。
そこに見えるのはただ、その場において留まったときの景色に過ぎない。
しかし、あなたがそこに留まることさえしなければ、その景色は移り変わっていく。
あなたは、自分にとってのよろこびの感情を探しに行くのであって、素晴らしい景色の見えるところへ安住を求めに行くのではないのである。
景色は、移動すれば変わるものであり、あなたは移動しないわけにはいかない。
常に「進む」という手段の中でしか、あなたのよろこびの気持ちを確たるものにできぬという道理を知るのであれば、何を思う日にも、その道理に従って進めばいいのだとわかる。
「わかる」ということの安息とは、そこに留まるあなたの想像を超えている。
さらに理解を深めるために、次項にも語ろう。