「怒りについて」の論

 

怒る人の話を聞いていると、
「○○のつもりだったが、そうではなかった」という話をするだろう。

 

怒る人というのは、「自分の筋書きとは違う」ということに対して、怒るのである。

 

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現実が、自分の理想と違うから怒っている。

怒る人というのは、「こうしたいのに、できない」とか、「こう思っていたのに、わかってくれない」とか、「こうなるはずだったのに、進んでいない」など、思いの通りに運ぶはずが、そうなっていないということに怒っている。

怒っている本人にしてみれば、当然のことを怒っていると思っているのだが、他の人にしてみれば、何を言っているのかわからないといった状況になる。

要するに、怒られている側は、怒っている人の気持ちなどわからないのである。

 

怒っている人にとって、自分が怒っているのはあまりにもあたりまえのことで、毎日頭の中に繰り返されていた筋書きの問題である。

しかし他の人にとってそれは、突拍子もなかったり、考えてもみなかったことであったり、全然知らなかったことであったりする。

だから、「怒らなければ、わからない」ということもあるため、怒るのが正解と考えている人は多い。

 

だが、怒るという行為について、正当化するのは少し早計というもの。

自分の「怒る」という行為にうんざりしている者は、怒らずになんとかわかってもらえないものかと考えているはず。

それに、なぜ怒る必要が出てくるのかも、わからないのだと思う。

 

だから、こう考えてみて欲しい。

怒る必要をもっているのではなく、怒らない方法を考えるべきなのだと。

 

まずは、自分がどのような立場において怒りを感じているのか、考えてみるのがいいと思う。

怒りを感じるということは、何かの筋書きを遂行しようとする立場にあるということ。

 

何をも遂行できない立場にある者が、怒りを感じているのだとすれば、もう一度よく考え直す必要がある。

そうは思わないだろうか?

 

怒りを感じている人間は、遂行するべき物事の途中経過において、怒りを感じている。

それだけのことだと、気づかねばなるまい。

怒りを感じるからこそ、自分の筋書きとは違っている状態に、気づくことができるのである。

 

怒りというのは、「こうなるはずであったのに、違う」という、自分の中の猛烈な反発なのだ。

それが、耐えられないほど理想と違うからこそ、怒る。
そうでなければ、へらへらと笑っていればいいことであろう。

なのに、その場を台無しにするほど怒ってしまうことがあるというのは、自分が何らかのことを軌道修正したいのだと、そのようにとらえるべき。

 

本当におこないたいのは、目の前の相手や周囲の人に怒ることではなく、理想とかけ離れた現実に働きかけるということではないのだろうか。

軌道修正するべき物事が目の前にあるのに、それをどうすればよいのかわからないからこそ、人は怒るという醜態をさらすことになる。

その事実を見つめれば、おこなうべきは他にあるということに、考えが移るはず。

 

目の前の相手や周囲の人間に、納得を促す材料が必要なのでは?
もしくは、説明や資料が足りていないのでは?
または、あなたが証明するべき物質が必要なのでは?
そうでなければ、あなたがおこなうべきは、その相手を無視して物事を進めることでは?

 

いかにして相手を怒り、黙らせるのかということを考えるのではなく、本当にあなたが行使したいことを、いかにできるようにするのかと、そのように考えねばなるまい。

どんなときにも、ただ怒りをぶつけるだけの行動は、無意味となる。

怒る人というのは、怒りがおさまらないから怒っているのではなく、現実が自分の理想と違うから怒っているのである。

 

その怒りは、おさめるためにあるのではなく、気づくためにあるのだ。

おさめるというのは、あなたの思い通りになれば、おさまるのであろう。

だが、思いの通りにならない何かがあるからこそ、あなたは怒るのではないだろうか?

 

怒りを感じている本当の理由を理解し、あなたの筋書きを、なんとか前に進める方法を考えようとすること。

それだけでいいのに、もともとそこにいた、あなたとは違う人間に、あなたの怒りをわかってもらう時間をとる必要はない。

 

わからないのだろうなと思ったら、わからせようとするのではなく、あなたの筋書きを遂行しようとすればいいのである。

そうすればきっと、わかってくれる人は増えると思う。

 

さらに理解を深めるために、次項にも語ろう。

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