愛という基準でものを見る

「困らない方法」を、理解しようとしても、理解できないのが、あなたであるのがわかると思う。

それがなぜかというと、「困ったこと」が、あなたをいじめるように困らせていると考えているところが、すでに間違っているからである。

 

その間違った考えのまま解決法を求めたとして、解決が正解になるはずもない。

しかし、この「困ったこと」こそが、あなたにとっての「愛」であると考えてみるや、そこには真実の扉が開くがごとく、解決法というものを指示されるような導きを得る。

 

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「愛」という基準で見るのは、難しい。

あなたの理解が進まなければ、その扉は閉まったままの状態になり、あなたは「愛」の方向を向かないままにさまよい続け、「抜け出る場所を見つけられない」という感覚に陥る。

そして、「愛」など感じられようはずもなく、あなたの理解は崩壊し続け、「自分には愛を与えられることがないのだ」と解釈するので、ますます扉が離れていく。

 

しかし、「愛」は隠れているのでない。
あなたが見るのなら、現れるのだと言っている。

 

「答え」を探すような感覚になったまま、「愛」を見つけてやろうとして、あなたがもがく必要があるのではない。

では、どうすれば、「愛」を理解できるのだろう?

 

その「考え」を変えたいのであるのなら、こう考えてみること。

「もしも、私が愛ではないととらえていること、そのものが愛であるとするのなら、私はどのように、考えを変化させられるだろう」と。

 

あなたが「困ったこと」を感じているとき、その最中にふと「この困ったことが、私に教えようとしているものを見つけるとするのなら、どんなことだろう」と考えてみるのがいい。

この「困ったこと」を、「愛」としてとらえてみるのなら、何を教えてくれているのだろうと考えてみること、それを「愛の方向に向く」と言っているのである。

 

そこから、「愛」とはどういう理解を得ることを言うのか、ということについて、考える基盤が出来上がるのであり、「愛」を与えられないと嘆くばかりの状態では、その「愛」は決して見えない。

つまり、「愛」という基準でものを見る方法を、知らなさ過ぎた自分の反映そのものが「現実」となってそこにあるということに気づくべき。

そこまで「愛」を見ずにいた自分が、「愛」に気づくまで報われない、その「現実」そのものさえ、「愛」を語るものと見るべきなのである。

 

「愛」というのを、難しく考えてはいけない。

あなたが楽になり、うれしくなり、また、少しあなたの理解を進められること、そのものを「愛」と呼んでいる。

そうであるのなら、あなたさえその気になれば、「愛」を見つけること自体は、それほど難しいことではないとわかるはず。

 

もちろん、その理解を得ていてさえも、「この場合、どのようにして愛をとらえればよいのかわからない」というふうに感じることが、あなたには多くあるだろう。

だが、この基準をもつことなく、何の望みを得られよう。

「愛」という基準をもって理解を得ようとせずに、何を得ようとするのだろう?

 

あなたが楽になれる方法を、いますぐに理解できないからといって、嘆かなくともよい。

これまで繰り返し、至らぬ考えを続けていたことがあるならば、何をもって突然の理解を得られようか。
あなたにとって、これを困難とするのは、当然のことである。

 

「なるほど、愛という基準で見るのは難しい。」と理解すれば、「愛」は見えるだろう。

なぜなら、あなたが、「愛などない」という方向から、
「愛を見よう。しかし、難しい。」という方向に、向きを変えている からである。

 

まずは、「愛」という基準でものを見ることに対する難しさを感じるのを素直に認め、「愛」を否定する方向からそれていくための知識をもとうとすること。

さらに理解を深めるために、次項にも語ろう。