考えようとも、答えの見つからないとき、「考え」は、必要でないと知るべき。
安らかな道の見えぬときに、「考えても、答えが出ない」とわかれば、あとは「信じる」という選択が必要になる。
この「信じる」ということができずにいることが、苦しみの原因になっていることも多いのである。
あなたの想像できない範囲を、信じる。
「信じる」ということを提案すれば、多くの人は、「信じることをすれば、どうなるか?」という考えをもつだろう。
「どうなるか」?
少なくとも、いまの苦しみを、逃れられないだろうか。
もしも、あなたが「信じる」に価するものを見るのなら、あなたは「信じる」のだろう。
もしも、あなたが確たる証拠を見るのなら、あなたは「信じる」のだろう。
しかし、そう「信じる」ことで、「私の中の問題を、楽にできる」という理由であっては、信じない。
―――なぜだろう。
どうしてあなたは、「信じる」ことをためらうのだろう?
「どうすれば、楽になるのか」
あなた自身が、それを最も考えようとせず、そこにいる。
「楽になる」とは、「信じる」ということ。
「信じる」というのは、あなたの頭の中にあるものを信じるのでなく、あなたの想像できない範囲を信じて歩くということである。
自分という人間の理解することを「そこまで」と考え、あなたが及ばない「愛」の力をもって、「なんとか流れというものを創ってもらえるはず」と信じる。
それは、自分のいまの「困ったこと」を扱う頭の中に、想像もつかない展開を望んでいるということを認め、自分の考えを解き放つ日々を信じるということ。
「必ず、その日々を味わう」までの間、そこに到達することを信じるということである。
あなたは、自分の考えの及ばない中、その日々を「信じる」という選択なしに、良い気分にはなれない。
つまり、この世のすべてのことを把握しているような考えをもって、
「もうダメかもしれない」「こんなことではいけない」「もう良くなる方法がない」といった考えを元にあなたがいま信じていることについて、「そうではない可能性」を、信じてみて欲しい。
あなたの「想像を超える可能性」を、そこに見て欲しい。
「可能性を信じる」というのは、あなたの考えの中にある想像など、役に立たないことを知るということである。
そのような、単純な頭の展開をもって、想像できる範囲にて「現実」が動いている、という妄想を手放すこと。
あなたがいま求めるものが、あなたの予想だにせぬ「素晴らしい展開」であるならば、その理解を、「現在の、困るサイクルにおける私の考えなどによって導き出せるものか」とする、謙虚な姿勢を必要とする。
最も早く、あなたがその「素晴らしい展開」へ導かれるためにすることとは、「私にはわからない」と判断して、その答えに出会うと「信じる」ことである。
そこに至るまでの「考え」は、無用。
それを信じ、そしてあなたが「困るサイクル」における思考を止めて、必要なことをおこなおうとすれば、あなたが知りたい答えに向かって歩き出す要素をもったサイクルへの移動を果たすことができる。
そうしてたどり着いた「あなたらしくある世界」には、あなたが「考えるべきこと」が、存在している。
あなたは、そこに至るまでの経緯に苦しむのではなく、まず、「困るサイクルを抜けられない」という、あなた自身の誤解に苦しむのだと言える。
さらに理解を深めるために、次項にも語ろう。