人は、「不公平」を理由に、いろいろなことをなおざりにしている。
「不公平だ」と主張する者は、自分には何かが足りていないという言い訳をしては、何かをすることができない理由にしているが、たとえ皆と同じことをできるようにしたところで、「できない者」である。
つまり、「不公平」ということを理由に、できない自分の能力を、上げようとしない者なのである。
「世の中は不公平である」という事実
能力というのは、上げようとしないと上がらない。
学力をつけようとしなければつけられぬように、体力を鍛えようとしなければ鍛えられぬように、経験をしようとしなければ自分の人生のレベルを上げることはできない。
スタートラインこそ違えども、能力を上げる権利は誰にでもある。
これは「公平」と言えよう。
ところが、このスタートラインの違いを、「不公平」と呼ぶ者がいるだろう。
では、ここで、考えてみて欲しい。
スタートラインが同じだとすれば、あなたは何をして能力を上げようとするのか?
能力を上げるということをせずに、「スタートラインさえ整えば能力が勝手に上がる」とでも、勘違いしていることはないだろうか?
能力を上げるという行動をしたくない者は、このスタートラインの違いの不平不満を、延々と語り続ける。
ところが、スタートラインを気にせずに能力を上げようとしていれば、いま頃はどんな人にも負けぬ能力が身についているということには気づかない。
どんな人にも負けぬ能力を身につけている者は、スタートラインが良かった者ではない。
たとえ人よりもハンデを負いながらでも、能力を身につけようとした者なのである。
「どんなに頑張っても、努力が報われない」と勘違いしている者は、「不公平」を理由に、勘違いを続けると思う。
そして、能力を上げようとする行動をしないため、能力は上がらない。
能力というものは、衰えることはあっても、ひとりでに上がっていくことはない。
つまり、そうして等しくもがいている人々の中、足を引っ張る側にまわり始めるのである。
そうして足を引っ張られながらも努力をしようとする者こそが「不公平だ」と叫びたいはずなのに、そういった者は叫ばない。
「誰もが公平に努力する権利をもっている」ということを知っている者は、誰に足を引っ張られようが、努力するべきだということを知っている。
「努力をするべきだ」ということを知っている者は、「世の中は不公平である」という事実を知っているが、それを乗り越えようとするだろう。
そうして、「この世の不公平を理由に人の足を引っ張ろうとする者」は不公平な世に打ちのめされるようになり、「そうと知りながら努力をする者」は、必ず報われる。
実のところ、そういった努力が報われる「公平な世」に、あなたがたは住んでいると思う。
さらに理解を深めるために、次項にも語ろう。