病気というのは、一人一人に、いろいろなことを教えるためにある。
だから、決してわけのわからない状態になるということは、起こらない。
あなたが病気になったときには、それを理解して欲しいと思う。
それは、あなたの「敵」ではない。
一概に、こうであるということを話すのは難しいが、一つ言えるのは、「治らない病気というのは、治すためにあるのではないのだ」ということ。
「改善をする」ということや、「治らないとしてどうするのか」ということは、人が死ぬまでに必ず考えるべきこととなる。
だから、病気に抵抗することばかり考えるのは、かえっておかしなことになると言わざるを得ない。
大切なのは、生きて死ぬまでの間に、病気になって改善を考え、そうやって苦しんで、「大切なことは何か」と考えること。
それが、当然だということである。
病気をすると、動けるのがありがたいと、わかるだろう。
よっぽど動いてなかったことを、知るだろう。
病気をするということは、必要なことをおこなっていない。
それは、わかるだろうか?
例えば、きちんといろいろなことをおこなおうとしている人は、病気になりにくい。
貪欲に健康を求めている人ではなく、人生の楽しみを味わおうとか、普通にあるべき姿を求めようとか、自然に生きるための努力をしようとか、そうして動こうとしている人は、病気にならない。
それは、わかるだろうか?
つまり、動こうとしていない・間違った考えをしている・偏った生き方をしている・「できないこと」を増やそうとしている・「できないことがあたりまえ」であろうとしている・それが「自分」であろうとしている人こそが、病気になる。
そう思わないだろうか?
間違った考えを正すということをしないと、どんどん酷くなってくる。
しまいには、自分が病気であることを認めなくなったり、早く死んでしまいたいと思うようになる。
そうではないだろうか?
病気を克服しようとか、病気と闘おうとする前に、それが自分の生んでいるものだと知らねばならない。
病気を毛嫌いする前に、あなたが呼んだのだと知らねばならない。
「病気を呼ぶ」というのはどういうことかというと、病気になってもおかしくない生活をしているということ。
病気を生んでも不自然ではない、偏った人生を歩んでいるということ。
そうではないにもかかわらず、自分のまったくあずかり知らないところにおいて、まったく関係のない病気が降ってかかるというのは、まずあり得ない。
関わってくるのは、遺伝と抵抗力と言えることはあるが、その発症する原因とは、自分の生き方だと思って欲しい。
自分が、そのように病気を招いても不思議ではない生き方をしている段階においてそれは発症し、成長と共に消えていくことのほうが多い。
または、さして病気のことを気にしなくなったり、「病気があっても生きていける」という状態になることのほうが多い。
つまり、一人一人に発症する病気というのは、意味がある。
「なぜ自分がそれを呼んだのか」ということを、知ることになるからである。
普通に考えれば、呼んだものは追い出せると思うのかもしれないが、あなたがコントロールするのは、病気ではなくなる。
病気というものは、それが原因となっていろいろな症状が起こる「病原体」のことを指す。
だから、それが自分自身の身体にあるということを自覚はできても、自然消滅するものにはならないということを話している。
自分の身体に発症するということを起こしながら、自分の中から追い出すということができない。
まさに、「自己矛盾の病原体」のことを言うのである。
これを変化させるために必要なのは、病原体を殺す薬ではなく、自己の変革ということになる。
それらを創り出している自己を変革しない限り、薬では追いつかないことが起こってくるというわけである。
もちろん、それがすべての理論ではないし、あなたがそれを理解するのは、もっと後になるかもしれないが、簡単に言うと、「気づくべきこと」がそこにはある。
あなたが思っているよりも、多くのことに気づくべきなのだということ。
そうでなければ、それを知らせるための病原体は、発症しない。
まさに、自分という器を表すかのように、さまざまな病気が、あなたに知らせるということは起こる。
だが、一つ言えるのは、「病気になる」ということは、「悪」ではないのだということ。
それは、「敵」ではない。
あなたに、それを知らせようとする「愛」なのである。
あなたは、そのようにはとらえることができないかもしれない。
だが、病気というのは、「自己の一部」として、つきまとう。
それが「愛」であるということを知らなければ、「自己そのものを、良くしよう」とする考えは、生まれない。
「自分」のことを良くしようと考え、常に人生の在り方を見つめ直そうとする、その原因が病気であるならば、それは「愛」ではなくて何であろう?
つまり、たとえそれで命を落とそうとも、敵であったというふうにとらえるのは、よくないということ。
人は、病気で命を落とすものではあるが、そこにはさまざまな愛がある。
病気は誰にでもつきまとうものであり、自分が死ぬまでの間に、いかに生きるのかを考えるきっかけが、「病気」という名の愛であることが多い。
それが、本当のことだということを忘れないで欲しい。
不老不死の人間がいないということは、「誰もが病気にかかる」ということを示している。
だから、なるべく病気にかからないようにするのではなく、かかっても「後悔のしない生き方をしてきた」と、言えるようになりなさい。
あなたが、それを目指すことをすすめている。
さらに理解を深めるために、次項にも語ろう。