評価というのは、ほんの少しのことで変わる。
それは、相手が情報を得るかどうかのことであったり、あなたが少し何かを工夫すれば良くなったりすることに過ぎない。
評価というのは、相手が見えていないものを、見せることによって変わるのである。
相手のことを、知らなければならない。
例えばあなたが、ダメだと思っていた人を、「ダメではないようだな」と思う瞬間が、どこかにあると思う。
反対に、あなたがダメだと思われていた人から、評価を受けることもあると思う。
それは、あなたが何かをしたというよりも、相手が何らかの情報を受けとって、見る目を変えたのである。
そもそも、あなたは同じ能力をもっているにもかかわらず、そうした評価が変わることがあるのだということ。
だとしたら、相手が持っている情報を見極め、変化を加えさせるということで、評価を上げることが可能になる。
自分のことを評価して欲しいと思う相手がいるのなら、「こんなこともできます」「あんなこともできます」といった情報を渡すのではなく、あなたが相手の持っている情報を見極め、それ以外に知っていて欲しい情報を渡そうとすること。
あなたの「こんなことができる」という情報は、相手にとって重要ではないかもしれない。
だから、相手が重要だと思うところに引っかかるような情報を渡せば、相手の見る目は変わる。
そのためには、相手のことを知らなければならない。
あなたが、評価して欲しい相手のことを知るべきであって、あなたのことを知ってもらうべきなのではないのだ。
上司に媚びを売ったり、下手に出ることによってかわいがってもらおうとする人を見て、嫌な顔をする人がいる。
だが、下手に出ようとする人はその努力をしているのだから、かわいがられるというのは不思議なことではない。
そういったことをしようとする人は、その論理をわかっていて、相手が何を望んでいるのかということを知っているからこそ、そのようにしているのだ。
「そんな媚びを売ってまで評価を得たくない」と思う人にとっては、ばかばかしいことかもしれないが、相手がそれを望んでいる場合には、媚びを売ることも正しい対処法である。
下手に出られることを望んでいない立派な人があなたの上司である場合には、その人が何を望んでいるのかということを、きちんと知らねばならない。
要するに、相手が何を望んでいるかということを知り、あなたが何を渡せるのかという問題になるのであって、その組み合わせが合わないようなこともたくさんあるのだということ。
不特定多数の人から評価されたいと考える場合には、これと同じく、あなたが相手にする人間の多くはどんなことを求めているのか という考え方になる。
それは「あなたを含めて」の話になるため、「あなたがどんなことを自分に求めるのか」という考えをもって、話を進めれば問題はない。
ただ、その場合は評価してくれない人間も、もちろんいる。
だが、あなたが評価して欲しい人間に評価してもらえないわけではないのなら、あまり気にしないほうがいいと思う。
あなたが評価して欲しい人間というのは、つまり、「あなたを含んだ、あなたと同じ感性をもつ人々」だと考えてみて欲しい。
あなたが人とは違う感性をもっているのかもしれないと、気にする必要などない。
あなたがいいと思っていることは、必ず他人も評価してくれる。
ただ、そうではない人間もいるので、そうではない人にまで評価して欲しいのかどうかというところを、考えてみればいいのだということ。
あなたは、あなたが評価して欲しい人に、評価してもらおうと考えるほうがいい。
あなたの能力はそのままで変わらないのであり、もちろんこれから努力によってそこから変化していくが、評価というのはそういった努力が足りないというよりも、相手に渡している情報が足りないというふうに考えてみたほうが正しい。
評価するのがあなたである場合のことを、考えてみればわかるはず。
相手がどれだけ主張をしてきたところで、あなたが「何らかのことを知る」ということが起きない場合には、評価は変わらないと思わないだろうか?
人はそれぞれ見ている範囲が広いわけではないので、自分のことを知ってもらおうとするときには、まず相手のことを知るというのが、大切なことになる。
その努力を怠る者はいくら主張しようとも、評価を得ることはできない。
要領よく出世をしたり、人づき合いを上手にしたりすることができる者は、「ずるい」のではなく、「賢い」のである。
それは、立派な努力であって、姑息な手段ではない。
本当に立派なことをしたいのであれば、相手のことを考えて、自分の本当の能力を捧げられるための努力を、きちんとしようとしなければならない。
そうすると、自己評価というものが必ず上がるので、試してみて欲しいと思う。
さらに理解を深めるために、次項にも語ろう。