あなたは、自分の「大切な気持ち」という言葉を聞いて、どのようなことを思い浮かべるだろうか。
あなたにとって、理想的な、崇高な精神という考えのもとに、その気持ちを想像しているのではないだろうか?
ところが、実際にあるあなたの「大切な気持ち」というのは、そのように、素晴らしい精神の元に存在しているようなものではないのである。
誰にわからなくとも、自分には必要なこと。
すでにお話したように、あなたの大切なもの・大切な気持ちというのは、あたりまえにそこにあるときには気づくことなく、それが失われるときに苦しいと感じる。
実のところ、あなたが失って苦しんでいる「大切な気持ち」というのは、あなたにとって、「自分はどうしてそんなことが大切なのだろう?」と思うようなことではないだろうか。
例えば、
「自分のことをわかってもらうこと」であったり、
「自分が考えたことをもっと認めてもらうこと」であったり、
「自分のことを褒めてもらうこと」であったり、
「自分のことが嫌いになりたくない」ということであったりするのではないだろうか。
そんなことが自分にとって、とても「大切な気持ち」なのだということを認め、自分がそれを尊重しようとしてはいけないのかもしれないと、考えるようなことではないだろうか?
あなたは、この話に反発したくなるだろうか。
あなたの「大切な気持ち」とは、もっと崇高な、非の打ち所のない気持ちのはずだと、思うだろうか?
しかし、あなた自身が不思議にさえ思うようなことに、あなたはこだわっている。
あなたが望んでいるのは、自分の中にある、そんな「つまらない気持ち」を、満足させることなのだ。
その「つまらない気持ち」のことを、「大切な気持ち」と呼んでいるのである。
自分の「大切な気持ちに気づく」ということは、あなたが、そのちっぽけな要求を呑んでやりたいのだ ということに気づくということ。
自分の大切にしているのが、実はそんなふうに、他人にとってつまらないものであったとして、あなたはその「大切な気持ち」を変化させることができない。
「大切な気持ち」とは、あなたがそこにあって欲しいと希望するのかどうかにかかわらず、すでにそこにある。
だから、その気持ちを大切にすることから、始めるしかないのだということ。
あなたが、その「大切な気持ち」を大切にし始めるなら、「他にも大切にしたいこと」は、増えていくようになると思う。
「この、つまらない気持ちを満足させたい」と考えてあなたがおこなうことを、邪魔することは誰にもできない。
あなたが、あなたのため、あなたのよかれとする気持ちに沿って動くことを、邪魔する者などいない。
ただ、誰かの「つまらない気持ち」を奪おうとするのなら、邪魔が入る。
他の人があなたに敵対する理由があるとすれば、
「自分のつまらない気持ちを大切にできなくなる」と考えるときなのである。
どうして人と人とがぶつかるのかというと、それぞれに、自分の「つまらない気持ち」を大切として、相手の大切な「つまらない気持ち」を責めるからではないだろうか。
つまり、あなたが理解するべきこととは、人が自分と同じく「つまらない気持ち」を大切にしていることを知り、自分は、自分の「つまらない気持ち」を大切にしようとするということ。
そういうことがわかってくれば、自分の「大切な気持ち」に沿うということを、「崇高な目的」にすりかえることなく、「誰にわからなくとも、自分には必要」と考えることができる。
あなたがその気持ちを大切にしてやらなければ、誰もあなたを満足させることはできない。
だから、きちんとその気持ちを満足させる方法を、考えてみようとして欲しい。
あなたが本当に大切にしたい、自分のちっぽけな要求を大切にしようとし、あなた自身の選択を、態度で示して欲しいと思う。
さらに理解を深めるために、次項にも語ろう。