「困らない場所」を、見つけようとしているあなたを、想像してみて欲しい。
あなたが考えている「困らない場所」とは、「こういうところだ」という考えをもっているだろうか?
だとすれば、その限定している「困らない場所」とはもしかしたら、「困らない場所」ではないかもしれない。
「あなたのよろこび」を、見つけるということ。
あなたの頭の中で、こういうことを想像してみて欲しい。
まず、あなたが砂漠にたたずみ、「水を飲みたいが、飲めない」というふうに、困っているのだとする。
そして、「困った」と考え、水を求め始める。
これがいつものあなたの「困るサイクル」だとして、考えてみて欲しい。
さて、「考えていてもそこにないのに、なぜ考えているのか」と理解したあなたは、水のある場所へ移動することこそ「困らない方法」であると考え、「そこを見つけさえすれば、困らない」と判断する。
そして、あなたは探し、ついには水を見つけるに至る。
しかしそこは、あなたの「困らない場所」ではない。
なぜなら、そこにあるのは、水のみ。
あなたは思う。
「水は得たが、食べ物がない。」
さて、あなたは考える。
そしてまた、「食料があればよい」として、「困らない場所」を理想とする。
しかし、次の場においても、また同じ。
食料を得たが、衣料がない。
衣料を得たが、住む家がない。
そうして考えることを繰り返し、あなたはどうして「困らない場所」にたどり着かないのかと、疑問を抱き始めることになる。
あなたが「困っている場所」では、「困らない場所」という、あなたの限定した狭いサイクルの考えにおける「場」を創ってしまうのだ。
水がなければ、困る。
だが、水さえあればよいわけでもあるまい。
なら、「たっぷりの水・死ぬまである食料・困らぬ安住の地」を求めるのをあきらめ、「必要なものを満たすために、どう動くべきか」を、考えるだけでよかったのではないか?
何かを満たしてから、次を考え始める、ということをすればよいのではない。
「困ったこと」について考え続けているときにはまず、「いまの問題」の誤解を知るということが大切。
例えば、水を求めている者に、「あなたが求めているのは、本当に水か?」と聞けば、「そのとおり」と話すはず。
しかし、この例え話の状況において、「あなたが探し回るのは、果たして水であるか?」と聞けば、あなたは「そうだ」と言うだろうか?
大きな「愛」に包まれ、何をするのかを深く探るということを、もっと理解するよう試みて欲しい。
あなたが必要なものを不足とする理由とは、「不足を満たす」という考えのみで解決する問題を与えられているのではないと知るため。
水は、必要。しかし、
「私が本当に望んでいるのは水ではない」と知ること。
水を求めて歩くのみを考えれば、「あなたらしい」ところには行かない。
水ではない、「あなたのよろこび」を見つけるということ。
水を手に入れつつ、あなたが本当に望んでいることを満たす方法を探るという、とても大切なところを見るようにすること。
「あなたに必要不可欠のものを求めて歩くこと」は前提であることだが、「足らずとすることさえ満たされればよいのに」と考えているのは、無意味なことである。
さらに理解を深めるために、次項にも語ろう。