あなたが困っているときには、あなたが「困る」という前提の元にあれこれと思考を巡らせ、「抜け道がない」と感じているサイクルの中にいる。
そこは、「困らない場所」へと移動するのが難しく、思考が循環するばかりで進めない場所であると、想像してみて欲しい。
さて、「困らない場所」へと続く道は、どこにある?
「わからないこと」を、考えている。
「わからないこと」を考える。
それほど、無駄に「思考」を使っていることはない。
多くの人は、心の位置を俯瞰できない場所にて、想像していることを、むやみに膨らませる習性をもっている。
あなた自身が、延々と繰り返していく「思考」を止めないがために、それは起こる。
いったいどれほどの時間を、「わからないこと」を考えていることに費やしているのか、確認してみて欲しい。
事実として「わからない」ことを、「わかろう」として考えているのか、それとも「わかるかもしれない」と思って考えているのか。
どちらにせよ、その答えは、あなたの頭に浮かばない。
「わからない」ということへの気づきを得るのなら、わかるところに移動できる。
そういう理解のもと、「移動」を目的にした行動をとることができないのであれば、考えを中断することをすすめる。
「恐らく、困るところのサイクルにはまっている自分がするべきこととは、このサイクルの中には解決法を見出せないとする判断である」と考えなければ、始まらない。
「困ったこと」とは、あなたが正しい道へと導かれるにふさわしい、はからいであるということの真理を忘れ、「愛」を見ようとしてない自分を感じてみて欲しい。
その場に居座り、離れようともしていない自分。
この自分を感じるに至るならば、まずはそこから離れ、「自分の行くべき場所はまだ明らかではなくとも、この自分自身を眺めてみる場所には行ける」ということを、思い出してみて欲しい。
そうしてあなたが「心の位置を俯瞰できる場所」に立ち、最初に見るべきは、「困るサイクル」において考えつくした答えの中に、あなたのよろこびの気持ちを見つけられなかったのなら、「いま考えていることの中に答えはなし」とする真理である。
そこで、「私が目指すべき場所とは、これまでの私には理解できない場所であり、想像を超えるほどのよろこびを感じるところへ続く可能性を秘めているのではないか」と考えてみて欲しいと思う。
つまり、あなたが困らない唯一の幸せの道を、確かに存在するとして話を進めるならば、それがために「困ったこと」が、「それは困らない道にあらず」と叫び続けている理由 を理解することができるはず。
なのにあなたがその声を聞かない理由があるとすれば、あなたの道をでたらめに、あるいはわからないまま歩いていくしかないとする、大きな「愛」を、なしとする考えに基づくものに過ぎないためである。
しかし、あなたが真理を見たいならば、「そうではないのでないか」と、一度見直してみて欲しい。
あなたは、ある「困ったこと」に出会い、困らない方法を考える。
それはあなたが、「困っている」という事実と、さまざまな感情に苦しむため。
だが、苦しみの上に、苦しみを重ねていくことで、解決したことなどあるまい。
ならばその苦しみとは、恐らく「愛」をもってこそ解決するはずと、心のどこかにおいて、わかっているのではないだろうか。
その方法を探るのは確かに難しいことであるため、あなたの心は乱れようとも、その真理を疑うことに、意味をもつとは考えるまい。
あなたは、その答えを出すにあたり、「考える」という以外の選択として、「信じる」ということの課題をもって、そこにいる。
さらに理解を深めるために、次項にも語ろう。