どんなことを経験していたとしても、あなたは「愛の方向」を見つけるまで探すことになる。
なぜなら、そうしなければ苦しいため。
あなたのよろこびを見出す本来の方法を理解したいとする欲求が、必ずあるため。
「愛」を見ようとしていない者について言えることは、いくら見回したところで、あなたが「愛」を見ようとしていない限り、「愛ではないもの」しか見えないだろうということ。
「愛」というのは、「不可解だ」と思っている者には、姿を見せないのである。
「愛」のとらえ方に、問題がある。
あなたが「困ったこと」のある場所に留まり、「愛を見つけられない」と感じるのであれば、あなたがそこに「愛」を見ようとしていない、ということに過ぎない。
あなたが「愛」を見出そうとしていないのだから、「愛がない」のは当然になる。
「愛」は最初からそこに存在してるのにもかかわらず、あなたが見てるのが、「愛」とはかけ離れた部分であるというだけのこと。
つまり、あなたの「愛」のとらえ方に問題があるのであり、「愛」のほうに問題があるのでない。
例えば、あなたがそこに「愛」を見出せないとき、その対象となるものに、「愛がない」と考えるのは間違っている。
そこに「愛」が見えないと感じているのがあなたであるのなら、あなたのほうに「愛」がない。
「愛」がないという事実を認めるのであれば、「愛の見える方向はどこであるのか」という理解を求め始めるのがよいのであり、「いかにしてこの、愛のない状況をおさめるべきか」と考える者は、愚かにも「愛」の方向からそれる行為を繰り返すことになる。
あなたが「愛」を望むのなら、その方向に顔を向ければよい話。
そのことを、よく覚えておいて欲しい。
「私が愛されていなければ、愛を感じない」と、あなたは思う。
「私が愛を感じなければ、愛は存在しない」と、あなたは思う。
しかし、「ここにある愛を、感じてみたい」とは、思っていない。
―――なぜだろう?
まず、その答えを探してみようとする気持ちをもつならば、そこに「愛がない」のでなく、「愛」を見ようとしなかった自分の目を、「愛」に向けるべきだったのだと気づくことができる。
すなわち、「愛が見えぬ」と嘆きたくなるような「困ったこと」のすべては、「あなたの見ている方向には愛がない」ということを、理解させるにふさわしい教えであると言える。
それがわかれば、「どの方向に向き合うのがよいのか」という、第一歩としての基盤ができ上がるはずである。
「愛がない」とわかっている方向に突き進む必要など、ないのだから。
あなたには、「愛」という基準で物事を理解できる資質が、備わっている。
「愛」を知らずに育ったと話す者さえ、そこに「愛がない」ととらえる力が、必ずある。
「愛がない」ととらえる力があなたにあるということは、「愛はどこかにあるはず」という前提において物事を考え始めなければ、成り立つまい。
従って、あなたの考えが「愛に向かっていない」ということがわかるのであれば、「どうすれば愛に向かうのか」ということを基準にして、考えていくということになる。
さらに理解を深めるために、次項にも語ろう。