秋元ユキです( ̄▽ ̄)ノ
「内なる声」からの回答です。
ワタシ :よろしいでしょうか?
内なる声 :いいよ
<質問>
こんにちは。はじめまして。 最近こちらのブログを知り、拝見させていただいています。
早速ですが、親友の愛猫が、家のリフォームの際に、大工さんや大きな音に驚いて逃げ出してしまい、戻ってこないようです。 辛い野良時代を経てやっと慣れてくれて、最近は穏やかな日々を一緒に過ごしていただけに、不憫でなりません。 知らない人間には決して慣れないみたいだし病気持ちなので、外で暮らして行けるはずもありません。 離れているので応援にも行けず、心配しています。
私が出来ることは何かないでしょうか。 その猫はもう戻ってくることができないのでしょうか。 もしご回答いただけましたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
chimama 08/26 12:33
ワタシ :この質問にお答え下さい。
内なる声 :そうだな。質問に答えるというより、あなたができることをしたいというのなら、するのがいいと思うけど、問題がどこにあるのかということをわかっていないようなので、それについて話しをしよう。
猫がどこに行ったのかということを、理解できないのであるならば、あなたができるのが、友人の気持ちをいたわるということだけになるよね。しかし、あなたの考えるに、「猫がどこに行ったのか」を含むので、「猫が見つかれば解決する」と考えている。
猫がみつかるための方法を理解できないのなら、たとえ応援に行けたとして、「見つからなければ解決しない」になってしまう。
考えてほしいのだけど、あなたの考えの中、「猫が見つかるかどうか」をなくせば、何ができると思っている?たとえ、「猫が見つからない」という事実をずっともっていたとして、あなたにできることが何であるかを知りたいと思う?どうかな?
ワタシ :どういうことでしょう?何を考えてみればよいのでしょう?
内なる声 :考えなくてもいいのかもしれないのだと、考えてほしい。なぜなら、あなたが何かをしても、それについての現実を変化させることを、可能としていない。すでに述べたようなことを話すのであれば、友人をいたわると考え、あなたができることを猫にもっていくのをやめればいい。見つかるかどうかわからないけれど、友人について良い結果を生むことを願ってそこにいると知らせるのが、あなたのできること。
それからもう一つ。あなたにとって、その猫が「逃げる」という表現をしているが、本人にとって、「逃げている」という意識もない。逃げているのではない。そこから出た、と感じている。それから、あなたが心配するようなことを、必要としない。本人が望んでいるのは、常に、本人の意思でいようとすること。そのことを考えて、あなたの目線からの「幸せが失われる」という考えを、本人の目線と異なっていることに注目してほしい。
本人にとっての幸せが、猫なりに「幸せだった」と感じるかどうかを、理解できる?なら、その理解をするのがどうして可能と考えている?
「可能なこと」を考えるにあたり、あなたは気づく。「何もわからない」と。何が幸せで、何をつらいとしているのか、決めるのはあなたでも、本人の飼い主でもない。
ワタシ :「本人」というのは、その猫のことですよね。
内なる声 :「本猫」がよかった?まあ、そんなこともあるのでは?今になってまるで、飼い猫を失うようにいわれても、「本猫」にとって何を言ってるのかわからないのだよ。だってそれを、普通と考えている。そこにいる自分について、「かわいそう」などと考えていないもの。あなたのように。
ワタシ :飼い主にとっては、とてもそんなふうに考えられないですよね。「戻りたいのに、戻れない」のだとしたら、気が気でないし、大工さんや大きな音に驚くようなことがなければ、まだそこにいたはずと考えますよね。それについては、いかがでしょう?
内なる声 :「戻りたいのに、戻れない」のだとしたら、「戻りたい」という意思をもって、戻ることもある。しかし、どちらにせよ、あなたが思うような「幸せ」のあり方ではない。
「そこにいるからこそ幸せ」という考えでいるのをあなたとするならば、そのように考えて生きてるのでないからこそ、出ていくという意思もあると知ってほしい。
「幸せでいられる方法を知らない」のではない。「幸せを、決めるのが自分である」と、常に知っているのが猫である。わかる?
ワタシ :はい。猫がそういう生き物であるということは、よくわかります。
内なる声 :ならばもう、できることをするだけで、「戻りたいなら、戻る」という、猫の意思に従わせるということを、考えておきなさい。
ワタシ :そうするしかないのはわかりますが、とてもつらく、難しいのだと思います。
内なる声 :そうだね。まあ、あなたの考えられることをいくら考えて心配しようが、何もわからないのでしょう?猫の「幸せ」も、飼い主の「幸せ」についても。わかっているのが何というのなら、あなたの思うところによって、きっと飼い主と過ごした時間について、あなたの想像どおり、猫も飼い主も良い時間を過ごしていたのだよ。それで、現在の飼い主の気持ちとしては、つらい。猫の気持ちは、わからないのでは?
ワタシ :つらくないでしょうか?
内なる声 :「つらい」という気持ちをもって、明け暮れてない。
ワタシ :では、「つらい」のも、そのことを考えているのも飼い主だけなのでしょうか。本当に?
内なる声 :「つらい」のでも、「幸せでなかった」のでもない。「そこからどうするのか」を考え、生きようとする。
ワタシ :たとえば、ずっと、飼い猫だった場合は?どう考えても困るだろうし、生きれないですよね。
内なる声 :あのね、生きれるかどうかではなく、「困ったなら、どうするのか」と考えるのだよ。怖くてじっとして動かずにいても、仕方ないと知ると動くのが猫。そのままじっとして死んでいる猫を見たことがないだろう。
困っても、つらくても、そこでどうするのかを考え、動く。あなたのような考えをもって動くのでなく、より良い結果に出会えるようなことを求めて動く。それを、「もとの飼い主を探すことでないのか」ということだけに限定しているのが誰か、というものの考えを、猫に学ぶ必要をもってそこにある。あなたの考えと、猫の考えを比較し、どちらを見習うべきものか、知って欲しい。
ワタシ :そう言われると…猫ってすごいです。まさに、お手本にするべき動物かも。でも、飼い主はやっぱり、戻ってくることを考えて欲しいですよね…。うーん…
一つだけ確認したいのですが、動物が「逃げる」「出て行く」ということは、起こるべくして起こるのでしょうか。つまり、飼い主がどんなに気をつけていても?
内なる声 :「起こらないことが、起こった」というように考えるのが人間の特徴と考えてほしい。猫に聞いてみたい?「気をつけていたら、逃げなかった?」
「何を言ってるのか、わからない」と言うだろう。
「出たくないものを、出したのがあなたでない限り、それが本人の意思」と思えないのが、人間の「コントロールできるもの」と考える、あさはかなものであると知る。何をもコントロールできないものを、猫ならコントロールできるとでも?
ワタシ :そう言われるほど、私は納得できます…。「出したくない」のは、飼い主なのですね…。もちろん、その方が猫も幸せと信じて。
内なる声 :猫が「幸せ」を求めるものと知るのなら、野良猫であった時にも、飼い猫になった時にも、それを終わりにせずに、「幸せ」を求めると知りなさい。だから、考えるべきことを、「あなたの幸せ」からずらしてしまうのを、やめなさい。
ワタシ :わかりました。でも、見つかるといいですね。何か、飼い主さんに言えることは、ありますか?
内なる声 :あなたの愛について、猫に祈りを送りなさい。「心配」を送るのを、やめてあげなさい。愛を送り、幸せを得るのだと、信じてあげなさい。
ワタシ :他にありますか?
内なる声 :ではまたね。
ワタシ :はい。内なる声へのご質問は、コメント欄よりお願いいたします。
では、また来週お会いしましょう。
この記事へのコメント(記事更新から30日以内)
秋元ユキさま
内なる声さま
この度は、私の場違いな質問にも、丁寧にお答え下さって、感謝しています。
本当にありがとうございました。
何度も自分に言い聞かせるように読み返しています。
何が幸せかを、決めるのは、自分…猫であっても…
アタマではわかっていても、やっぱり戻って来て欲しいと思ってしまいます。
でも、今の私に出来ることは、友人と猫にとって、より良い結果になるように愛の祈りを送ること…ですね。
上手く言葉にできなくて、伝えたいことの半分も書き込めなくてすみません。
いただいたことを大切に、これからも自分の中で昇華出来るように考え続けます。
本当に本当にありがとうございました!
まだまだ暑い日が続きますが、どうぞお身体ご自愛くださいね。
ユキさん、内なる存在さん、初めまして。
HP,迷ったときに見ては元気が出ます。
質問なのですが、私は5年ほど前から
左目に力が入らないようになってしまい、今現在もそのことでしょっちゅう落ち込みます。
落ち込む理由として、目に力が入らないので
集中力が持たず、呼吸も苦しくなって人とコミュニケーションが上手くとれないことがあります。
日常生活でも目のせいでイラだったりしてしまうときがあり、自暴自棄になってしまったりします。
病院に行っても原因が分からず、なかば途方に暮れています。
今はいい思考と潜在意識を使って治そうと思っています・・
というより、もうそれしか自分には選択肢がありません。
この状態になって思うのは、とにかく人と楽しく話したいという欲求です。
人と話すと心の底から喜びが沸き起こるんですが、
そのときいつも思うのが、これで左目が治っていれば最高なのに。。という感情です。
実質、今は人と長時間コミュニケーションをとるのは困難で
、時折この先も目は治らず、ずっと孤独で苦しい思いをしていくのではないか。。。とネガティブになってしまうときがあります。
よく病気はメッセージといいますが、私なりに学んだことはいろいろあります。
人とコミュニケーションをとる楽しさや、当たり前のことに感謝することや、スピリチュアルを知ったのもこの病気のおかげです。
今、私は学びの段階にいるのでしょうか?
この病気を真剣に乗り越えたいと思っている自分がいます。
私のセルフは、私になにを伝えたいと思っているのでしょうか?
教えてほしいです。
お願いします