秋元ユキです。( ̄▽ ̄)ノ
「内なる声」との対話を更新します。
ワタシ :ブログを更新したいのですが、よろしいでしょうか?
内なる声 :うん。そうだな、今回は、あなたに必要なことを話してみよう。
あなたが、いまおこなっていることは、これまでの経験から得ているものを教訓として、何をするかを考えたものだね。
いま、あなたが、おこなっていることを挙げてみてはどう?
ワタシ :いま活動していることを、挙げてみるのですか?
まずは、メルマガやホームページであなたの教えを更新していること。そして、このブログを書いていること。それから、「自分」についての理解を深められる媒体を創ろうとしていること。
それから、メールでのサポートや対面サポートやハイヤーセルフのメッセージを送ったり、日々いろんなことをあなたとお話したりすること。
そういう感じであなたに教わっていることの理解を深めています。
内なる声 :そう。その中に、あなたがよくわかってない作業はある?
ワタシ :よくわかってない作業…?うーん、わかってないというか、あなたの教えを理解してやっていかないと、どれもできないかな。そうですよね。
内なる声 :じゃあ、あなたが、これまでそうしてきてよかったことは何?
ワタシ :よかったこと?えー、それはもう、どれも私が驚くばかりのことですよ。
だけど、やっているうちに、慣れるというのは恐ろしい…。いちいち感動することなく、「ああ、更新しないと」と思ってやっていることが多いですね。実際、作業を始めると面白くなって、そして「疲れたー」と思って終えてる感じ。
だけど、私は早く、自分があなたの教えをわかりやすく表現できるようになりたいです。あなたが話すことを理解して、自分の表現によって、明らかにするということを進めたいと、いつも思ってます。
内なる声 :なら、私ともっと話をしないといけないね。
さて、ここで少し考えて欲しいけど、あなたがそんなふうにおこなっていることで、何が変わっているのだと思う?
ワタシ :うーん。それは、私の理解が進んだり、人生においての理解を深められたり…そして、それを発信することができるのだから、読者の方が何かを得てくださることもあると思っています。
そうではないのでしょうか?
内なる声 :うん。そうなのかもしれないが、あなたが、コントロールすべきところはどこかということを、わかってないのが少し見えているということ。
あなたが、コントロールすべきはどこにある?
ワタシ :最近、あなたはよく私にそういうことを言われてますが、コントロールすべきことをどこにおいていればよく、どこがいけないのか、ちょっとわからないのです。
私は、「自分の理解を進めればいい」と言われるので、そうしようとしてますが、何かいけないところがあるのでしょうか?
内なる声 :いけないのではない。あなたの理解を進めることを考えるのが、あたりまえなのである。
しかし、そういう考えの中、あなたの理解とは進んでいる?
ワタシ :進んでいるかどうか、はっきりわからないけど、あなたの教えを聞いてまとめる作業をしているのはすごく勉強になるし、日々、いろいろ考える助けになっているのですが、それだけではいけないと言われているのでしょうか?
内なる声 :だから、そういう作業についておこなっているのを、「進んでいる」と、とらえているのはよくない。しかし、あなたがその作業を理解することで、進むための知識は得られる。
ところが、「そのような知識を必要」と考えるのならば、「その知識のない者は進めないのか?」というと、そうではない。あなたが「進む」というのは、常に自分の意図を反映させているということであるのを知って欲しい。
その方法・その考え・その知識についてのことばかり見ていては、あなたの理解は進められない。
つまり、あなたがしていることとは、「マニュアルを読んでいる」ことなのか、「そのマニュアルを活かし、操作することを楽しむのを進めている」のかという話。
ところで、あなたは、マニュアルを読みながら、実際のその方法を試すということをしている?
ワタシ :はい。もちろん、あなたに教えていただいていることを、実践しようとして、またわからないことがあれば質問して、それをメッセージとして発信するというように、うまく回しているつもりなのですが…。
内なる声 :そう。ならば、その実践していることが進めば、教えも進むということ。ただ、その「教えが進む」ということが、あなたが「進む」ということではない。
あなたにとって「わからないことを質問していく」ということが必要なのではなく、「質問できるということは、そこまでの考えを理解できている」ということになっていると、わかるのだろう?
だからあなたは、「質問することがない」という状況になることがない。
つまり、あなたという存在の役割とは、必ずその教えを実践し、その実践後の確認をするという作業の提供をしようとするもの。
そうでない教えを、そこに記すだけの役割など必要ない。
いま、それを理解している?
ワタシ :それは、いつも考えています。私が進まなければ、何もできないなと。
だけど、やっぱり難しいなと思っています。こういう作業を通して、本当にいろいろ感じています。あなたのメッセージを発信しながら、どうすればその実践ができるようになるかも、あわせて考えています。
だけど、読者の方々は、どのようにこの教えやメッセージをとらえていくのでしょう。
私は、自分の理解を伸ばすことを考えるようにと言われていますが、他の方にとってそのメッセージとは、どんな役割を果たすのでしょう?
内なる声 :うん。それは、「メッセージを読んで理解するということによって、その者の理解が進むというわけではないというところを、わかって欲しい」と思うところに留まる。
つまり、あなた方に何を話すときにも、つまりはあなた方が、その実践のとらえ方をどのようにおこなうかというところにゆだねられている、というふうに説明せざるを得ないと言える。
ところが、あなたも、そのメッセージを読む者も、その実践を進めるにあたって重要と思うところを見間違え、「理解すればそれで満足」という考えをもったり、その理解を忘れたりする自分に気づかず、その事実を傍らに置いている節をもつ。
どうしてそういう節をもつのかといえば、そうしているのが例えば、あなたにとっての擬似的な喜びになっているとすれば、「その擬似的な喜びについての理解が深まることにしかならない」ということに気づいていないためといえる。
理解とは、その理論を解し、その経験へ繋げるというところへ向かわずして得られるものではないということがわかってこないといけない。あなたにとって、理解とは、その理論を解すというところでは満足できないということが、わかってくるのではないか。
どう思う?
ワタシ :そうですね。
つまり、頭の中でわかっていることと、きちんと実践できるようになっているかどうかということが、伴っていなければ無意味と思いますが、そのあたりをどうやって自分でわかることができるのですか?
内なる声 :あなたがその実践を伴わなければ、その教えを進めていくことが留まっていくということになる。
ただ、あなたが進んでいても、それを見る者がその理解を進められなければ、あなたではなく、その者が感じることが伴わなくなる。
つまり、教えが進んでも、あなたと共に進むかどうかは、あなたが決めれることではない。
だから、あなたができるのは、人を理解させることではなく、自分の理解を進めることだということ。
そのメッセージを、どのときに、どのように理解するのかを、あなたの発するものによって、変化させられるものと考えないこと。
そこが、わかっていれば、いいと思う。
ワタシ :なるほど。だからこそ、こうしていろいろなメッセージを、いろいろな段階で発して、残していることに意味があるのかも知れないですね。
多くのメッセージの中、何を感じていただけるかということは、それを読む人にゆだねるしかないということですね。
内なる声 :そう。だから、そういうことを常に頭において、あなたの理解をどう進めるのかを考え、あなた以外の者を、その理解の範疇におさめること目的にするのではなく、ただ、「自分の理解というところを、それぞれに大切と考えるためのもの」として、何を提供するのかを見て欲しい。
あなたは、「自分」という者を理解する以外のことを、可能にしていない。
だからといって、他の者の考えを無として提供するのは、おかしいと思っているのだろう?
ワタシ :はい。そうなんです。最近、そのあたりの考え方がよくわからないことも多いのです。
内なる声 :だから、あなたにとって、その考えが定まってくることが、大切と考えて進んで欲しい。
他の者は、それぞれの理解をどの段階において見るかという、自身の判断が必要になっていることを知っている。
それを、あなたは知ることはできない。
だから、ここにきて、あなたが読者への考え方について「どう考えればいいのかわからない」といったことをもつようになっていることを不思議に感じず、あなたがいまその段階にあるとして受け取って、さらに「自分」を理解しようとするかどうかということを考えてみて欲しい。
ワタシ :そうですね。最近のこのブログの中でも、「どう考えればいいかわからない」という迷いが出てしまってましたね。そういうことを理解することがいま、私に必要なことなのですね。
わかりました。今日は以上ですか?
内なる声 :うん。また話していこう。では。
ワタシ :はい。来週のブログ・メルマガは、お休みをいただきます。
個人サポートは続行しております。
それでは、よいゴールデン・ウィークをお過ごしくださいね。(⌒▽⌒)ノ